「僕の犬とすごく仲良さそうに遊んでいたので、また二匹を一緒に遊ばせたいなと思って。でも……迷惑でしょうか? 別に怪しい者じゃありませんから。よければ名刺があるので」男性は胸ポケットから名刺を出して朱莉に手渡してきた。「京極……正人さん……ですか? えっと……リベラルテクノロジーコーポレーション代表取締……役……?」朱莉は名刺を見て目を丸くした。「どうかしましたか?」「あ、あの……代表取締役って……まさか社長さんですか!?」名刺を両手で握り締めながら朱莉は京極と名乗る男性を見た。「ええ……まあ一応は。でも2年前に独立して作ったばかりの会社なので、それ程大したことはありませんよ。IT産業の企業なので、僕も含めて社員の殆どは在宅勤務か必要に応じてレンタルオフィスを利用しているんですよ。ゆくゆくは自社ビル位は持とうかと考えていますけど……」京極の話を朱莉は呆然と聞いていた。やはりこの億ションに住む人達は自分とは住む世界が違うのだと思うと、何となく惨めな気持ちになってきた。今の状態で6年後の契約結婚が終わり、翔と離婚をすれば朱莉はこの億ションを出なければいけない。自分には何も残らないのだ。その為にはまず通信教育を頑張って、高校卒業の資格を得なければならない。一方の京極は突然朱莉が黙りこくってしまったので、再度声をかけた。「あの……何かありましたか?」「あ、いえ。何でもありません」「あの、宜しければ貴女の名前も教えていただけますか?」(名前……? 私に鳴海の姓を名乗る資格があるの……?)いくら翔と婚姻関係を結んでいるとは言え、所詮それは書類上だけのこと。だが……。「はい、鳴海朱莉と申します」「朱莉さんですか。良い名前ですね」何故か男性は苗字ではなく、下の名前で話しかけてきた。「ありがとうございます。あの、それではそろそろ失礼しますね」すぐに部屋に戻って勉強をしなければ……。朱莉は立ち上ると、京極に声をかけられた。「あ、あの」「はい?」朱莉は立ち上がったまま返事をした。「それで、ここで一緒に犬を遊ばせるという話ですが……」(ああ……そう言えばそんな話をしていたっけ……)「あの……今と同じ時間で、1時間位なら大丈夫ですよ?」朱莉はとてもでは無いが出会ったばかりの男性に、もうすぐ私の飼い犬はいなくなります。とは言えなかった。(
――16時「ふう~。今日の打ち合わせは中々ハードだった……」琢磨が疲れ切った様子でオフィスに戻って来た。「ご苦労だったな。琢磨」翔がコーヒーを琢磨に手渡した。「へえ……。副社長自らがコーヒーを淹れてくれるとはな」琢磨はらコーヒーを一口飲むと笑みを浮かべる。「うん、旨い」翔も自分にコーヒーを淹れると、琢磨に質問した。「なあ……琢磨。お前に聞きたい事があるんだが……」「その顔からすると会社の話じゃないな? 大方明日香ちゃんか朱莉さんのことだろう?」コーヒーをデスクの上に置くと琢磨は椅子の背もたれに寄りかかる。「……俺はまたヘマをしてしまったらしい」「ヘマ? 一体どんな?」「マロンの動画が明日香に見つかってしまった」翔は神妙な面持ちで言った。「え? ヘマってそれだけのことか?」「ああ……。そうだ」「何だよ。ヘマって言うからどれ程の物かと思った、、別にバレないだろう? 送り主だって俺なのに」「いや……。それが明日香に朱莉さんが飼っている犬だとバレてしまったんだ」「何だって!? ……ったく。明日香ちゃんはお前が絡んでくると、恐ろしく勘が鋭くなるよな? それで何があった? 明日香ちゃんは確か動物が嫌いだったよな?」琢磨はコーヒーに手を伸ばし、一口飲んだ。「明日香は……言ったんだ。朱莉さんが飼い犬を虐待しているって……」翔は沈痛な面持ちで琢磨に言う。「はあ……? 翔……お前、その話信じたのかよ?」琢磨は呆れたように翔を見た。「まさか! 信じるはず無いだろう!? だが……まだ明日香は精神が不安定なんだ……。だから信じざるを得なかった……」「お、お前なあ……! まあいい。最後まで話を聞かせろよ」「あ、ああ。それで明日香は朱莉さんに言ったらしいんだ。1週間以内に犬を手放さなければ……保健所に通報するって……」「……」琢磨は口をぽかんと開けたまま翔を見つめた。「どうした? 琢磨」「いや……あまりのことに一瞬言葉を無くしてしまっただけだ。翔、勿論そんな馬鹿な話やめさせたんだよなあ?」「……いや。止めなかった……」「お前、本当に止めなかったのか? それじゃ朱莉さんにあの犬を手放させるつもりなのか? 翔! お前朱莉さんが何故犬を飼いたがったのか分からないのか!?」琢磨は声を荒げて翔を見た。「犬が……好きだから……? いや
「お前なあ!」気付けば琢磨は翔の胸倉を掴んでいた。……がしかし、その手を降ろした。「琢磨……? 殴らないのか?」「馬鹿言うな。会社で副社長のお前を殴れるはずが無いだろう?」「そうだよな……」翔は自嘲気味いに笑った。「となると……きっとあの朱莉さんのことだ。今頃必死になってマロンの飼い犬を探しているはずだな……」「ああ、そうだ。多分な……」「俺達も協力して探してやるのがいいのかもしれないが……それだと何だかまるで俺達は早く朱莉さんに犬を手放させようと取られかねないし……」琢磨は腕組みしながら考えた。「なあ、琢磨。お前のマンションで飼えないか? そうすれば週末位なら朱莉さんとマロンを会わせることが……」そこまで翔が言いかけると、琢磨が顔を真っ赤にして怒り出した。「おい翔! お前、ふざけるなよ! 俺の住むマンションは第一ペット不可だ。バレたら追い出されてしまうだろう!? 大体、お前仮に俺が預かったとして……朝から仕事の俺がどうやって犬の世話が出来るって言うんだ!? そこまで言うなら、社内にペット専用ルームでも作れよ!」「うん……それは良い考えかもな……」「おいおい……冗談だろう?」琢磨はひきった顔で翔を見た。「いや……勿論冗談だ。だが明日香との約束まで後6日しかないからな……。何か対策を考えないと……」「ああ、そうだ。俺達には責任があるからな。だいたい、お前早目のバレンタインプレゼントを朱莉さんから貰ってるしな」琢磨の言葉に翔は反応した。「バレンタインプレゼント……? そう、それだ!!」「な、何だよ! 今度は! 急に大声を出すなよ!」しかし翔は琢磨の言葉に耳を貸さずに、ハンガーにかけてあるマフラーを持って来ると琢磨に見せた。「教えてくれ、琢磨。このマフラーを編んだのは朱莉さんなのか?」「多分な。以前朱莉さんからマロンの動画を送って貰った時に、お前へのバレンタインプレゼントに藍色のマフラーを編んでいると言ってたからな。ただ……どうやって手渡せばいいか悩んでいた。……おい、どうした? 翔」「そ、そんな……」翔は唇をかみしめている。「翔?」「昨夜……部屋に帰るとリビングのソファの隙間にこのマフラーが落ちていたんだ。それでてっきり明日香の手編みのマフラーかと思って尋ねたら……頷いたんだ」「それで、明日香ちゃんの手編みのマフ
21時―― 朱莉はペットショップからPCに送られてきたメールに目を通していた。そこには今日も新しく飼い主になってくれるような方は現れませんでしたとう内容のメッセ―ジが書かれていた。「やっぱり、そう簡単には見つからないんだな……」朱莉は犬用ベッドで丸くなって眠っているマロンを見ながら溜息をついた。マロンは今から30分程前にシャワーで身体を綺麗に洗った。ドライヤーで乾かしてあげた頃にはすっかり眠くなっていたようで、今は気持ちよさそうに眠っている。椅子から立ち上がると、そっと眠っているマロンの身体に触れる。(温かい……)マロンの温かい体温が、ドクドクと動く心臓の音が朱莉の掌を通して伝わって来る。朱莉の掌に涙がポトリと垂れた。マロンの身体に触れながら、朱莉は声も出さずにポロポロと涙を流していた。(マロン……離れたくない……。あなたを手放したくない……。ずっと側にいて欲しいのに……)その時、突然朱莉のスマホに電話の着信を知らせるメロディーが鳴り響いた。「電話……?」(珍しい。誰からだろう)ひょっとして母からだろうか……? 電話の番号は見たことも無い番号だった。(どうしよう?)電話に出ようか出まいか、朱莉は迷ったが……スマホをタップした。「もしもし……?」『朱莉さんか? 俺だ。翔だよ』電話の相手はなんと翔からだったのだ。今まで一度も翔から電話を貰ったことが無い朱莉はすっかり面食らってしまった。「あ、あの……本当に翔さんなんですか……?」『ああ、そうだよ。すまない、今まで一度も電話を掛けた事が無かったから驚かせてしまったね?』「あ……はい、少し驚きました」受話器越しから聞こえて来る翔の声に朱莉の心は自然と高まってきた。『何だか声の調子がおかしいみたいだけど……もしかして泣いていたのかい?』「!」翔の気遣うような言葉に思わず朱莉は息を飲んだ。その様子が翔に伝わったのだろうか。『すまなかった……。朱莉さん』「え……?」突然の翔の謝罪の言葉に朱莉は戸惑った。『明日香が朱莉さんにマロンを手放す様に言ったらしいな?』「! 知っていたんですか……?」まさか、翔にマロンの件の話が伝わっているとは朱莉は夢にも思わなかった。『ああ、明日香が自分から言ってきたんだ。本当にすまなかった……。俺がへまをして琢磨経由で朱莉さんが動画撮影してくれ
『朱莉さん……俺には明日香を止めることが出来ない……』朱莉は翔の話を黙って聞いていた。(ええ。分かっています……だって翔先輩の一番は……明日香さんだっていうことは高校時代から……)「はい。今マロンの飼い主を探している所です。でも、ありがと「うございました」『何故お礼を言うんだい?』翔の声は何処か苦しそうだった。「それは……ほんの短い間でもマロンと一緒に暮らせたからです。感謝しています」目頭が熱くなり、鼻の奥がツンとなったが、朱莉は泣くのを必死で堪えながら言葉を綴った。(駄目……今ここで泣いたら翔先輩が気にしてしまう……)『朱莉さん。俺の方でもマロンを大事に育ててくれそうな人を探してみる。明日香の提示した期限ギリギリまではマロンの側にいられるように条件を提示して探してみるから……。すまない。それ位しかしてやれなくて』「いえ……。お、お仕事が忙しいのにそこまで考えていただき、ありがとうございます」朱莉は泣きたい気持ちを必死に抑えて翔にお礼を述べた。『朱莉さん……』翔の声が躊躇いがちに朱莉の名を呼んだ。「は、はい」『藍色のマフラー。俺の為に編んでくれたんだって? 大事に使わせて貰っているよ。ありがとう』翔の言葉に朱莉は驚いた。「え? ど、どうして……?」『明日香が朱莉さんの所へ行った時、マフラー無くなっていただろう?』「は、はい」『部屋に帰ったらマフラーがソファの上に落ちていたんだ……』「!」『てっきり、俺は明日香が編んだマフラーなのかと思って尋ねたら、明日香は頷いたんだよ。だけど、よく考えてみれば、明日香には編み物なんか出来ない』「あ……」『そして秘書の琢磨に聞いたんだ。朱莉さんが俺の為にマフラーを編んでくれていたって話をね』受話器越しから聞こえて来る翔の声は、今迄朱莉が聞いたこともない程に優し気なものだった。『ありがとう。誰かに手編みのマフラーを貰ったのは生れて初めてだったから本当に嬉しかったよ』「!」朱莉は思わずスマホを落しそうになってしまった。まさか翔からそのような言葉を貰えるとは思ってもいなかった。『本当に今回の件はすまなかった。いずれ改めて何らかの形で朱莉さんに謝罪させてもらうから……今回のマロンの件は……』(翔先輩だって……本当は動物が好きなのに、私の辛い気持ち……分かってくれてるんだよね……?)
翌朝―――出社した翔は、先に仕事を始めていた琢磨に声をかけた。「おはよう、琢磨」「おはよう翔。お? 今日も朱莉さんが編んだマフラーしてきたんだな?」琢磨は顔を上げると、翔の首もとを見て目を細めた。「ああ。朱莉さんがせっかく編んでくれたマフラーだからな」「そうか。別に明日香ちゃんはそのマフラーをしても何も言わないんだろう?」琢磨は何所か面白そうに尋ねた。「そうだな。黙って見ているよ」「ククク……そりゃ何も文句言えるはずないよなあ? だって翔には自分がそのマフラーを編んだと説明しているんだからな」肩を震わせながら笑う琢磨。「まあ、そう言ってくれるなよ、琢磨。多分明日香は俺がこのマフラーを使っている姿を見るのは辛いはずなのに我慢しているんだから」翔の言葉に琢磨は肩をすくめた。「全く……またそうやってすぐお前は明日香ちゃんの肩を持つんだからな。俺には理解できないよ。そりゃ明日香ちゃんは美人かもしれないが、性格が強すぎる」「明日香がああなったのは仕方が無い。自分の立場を必死で守る為に虚勢を張らざるを得なかったんだから。お前だって知ってるだろう? 元の明日香はあんな性格じゃなかったことくらい」「……」琢磨は翔の話を黙って聞いていたが、やがて言った。「翔、今日の仕事のスケジュールを説明するぞ……」その後、翔と琢磨は仕事モードに切り替えた――**** 11時――朱莉はマロンを連れてドッグランへとやって来ていた。昨日知り合ったばかりの京極と約束をしていたからである。「朱莉さん! こっちです!」ドッグランへ着くと、もうすでに京極は到着しており、飼い犬をドッグランで遊ばせていた。「こんにちは。遅くなってすみません。まさかもういらしているとは思わなくて…」遅れてしまったことを京極に詫びた。「ハハハ……別にいいんですよ。何せ僕よりもショコラの方が早く遊びに来たがっていたので」京極は自分の飼い犬を抱き上げた。「ショコラ?」朱莉が首を傾げると、京極は笑みを浮かべた。「ああ。すみません。この犬の名前ですよ」京極は犬の頭を撫でた。ショコラは今にも尻尾がちぎれてしまうのではないかと思われるくらい激しく尻尾を振って喜んでいる。「すごい偶然だと思いませんか? 朱莉さんの犬の名前がマロンで僕の犬の名前がショコラなんて。美味しそうなスイーツの
少しの間、2人の間に沈黙が流れたが、先に口火を切ったのは京極の方だった。「朱莉さん、犬を飼うのは慣れているんですか?」「いいえ、つい最近飼い始めたばかりなんです」するとその言葉に驚いたのか京極が目を見開いて朱莉を見た。「ええ? そうだったんですか? てっきり朱莉さんは犬を飼うのが慣れている方だと思っていましたよ」「何故そう思ったのですか?」「それはマロンを見てみれば分かりますよ。とても手入れが行き届いている。愛情が無ければあそこまで綺麗に毛並みを整える事なんて出来ませんよ。マロンはとても大事にされてるんですね」大事に……本当にそうなのだろうか? 本当に大事なら、どんなに明日香に攻め立てられても身体を張ってでもマロンを守り抜くのが真の愛情なのではないだろうか?「私はそれほど立派な飼い主ではありませんよ……」今にも消え入りそうな声だった。京極は少しの間、沈黙してたがやがて口を開いた。「僕は最初ここに引っ越してきた当時……本当はここに住む人達とは誰とも交流を持つまいと思っていたんですよ」どこか遠いところを見るように京極は言った。「僕はシングルマザーの母の元で貧しい環境で育ってきたんです。僕の親戚は金持ちが多かったけれども、周囲の反対を押し切って結婚した母のことを良く思っていなかった。早くに亡くなった父は貧しい画家だったのでね。お金が無くて苦しい生活だったけど、誰も援助はしてくれなかった。皆お金持ちだったのに」京極は一体何を言いたいのだろう? 朱莉は黙って話を聞いていた。「だから、僕は必至で勉強を頑張って……いつかお金持ちになって彼らを見返してやろうと思っていた。そして僕が成功するとそれまで見向きもしなかった親戚たちが僕の元に集まるようになったんですよ。結局、金持ちは金持ちとしか付き合いたくないってことなんですよね」そこで一度京極は言葉を切ると再び続けた。「だからここに越してきた時も誰とも交流を持つのはやめようと思っていたんです。実際ここに住む人達は皆お高く留まった人間たちばかりだったから。でもそんな時、朱莉さん。貴女を見かけたんです」京極はじっと朱莉を見つめた。「私を……?」「ええ、貴女はここで働くフロントのスタッフ達に丁寧に頭を下げ、いつもお世話になっていますと声をかけてました」確かに言われてみればそうだったかもしれない。で
「あ、あの……実は……」朱莉が京極に話そうとした時。「あら? 朱莉さんじゃないの? 何してるのこんな所で……ってああ。そこはドッグランだったのね」買物でもしてきたのだろうか? 全身ブランド物で身を固めた明日香がブランドのロゴマークが入った紙バックを持って立っていた。「あ、明日香さん。こ、こんにちは」朱莉は緊張の面持ちで明日香に挨拶をした。「それで? 新しい飼い主は見つかったのかしら?」明日香は朱莉の隣に京極が座っているのもお構いなしに話しかけてくる。「え……?」それを聞いた京極が小さく口の中で呟くのを朱莉は聞いてしまった。一気に朱莉の緊張が高まる。(どうしよう……。私から説明する前に京極さんに犬を手放すことがばれてしまった……!)一瞬朱莉は目を伏せ、唇をギュッと噛み締めた。そしてそんな朱莉を意地悪い笑みを浮かべて見つめる明日香。「ところで朱莉さん。御隣にいる方はどなたかしら?」明日香の問いかけに朱莉は一瞬ビクリと肩を震わせたが、すぐに答えた。「あ、あの……。この方は……」朱莉が言いかけると、京極が口を開いた。「いえ、僕から説明しますよ。初めまして、京極正人と言います。つい最近こちらに引っ越してきました。鳴海さんとは昨日このドッグランで初めてお会いしました。偶然にも同じ犬種でして、互いの犬が仲良さげに遊んでいたので本日もこちらで一緒に遊ばせていたんです」鳴海……ここで京極は初めて朱莉のことを苗字で呼んだ。そのことに少しだけ驚き、京極の横顔を見上げた。もしかして、京極は朱莉と明日香の張り詰めた空気に何か気付いたのだろうか? 朱莉の心臓の鼓動が早まってきた。(どうか……どうか明日香さん……今日はもう見逃してください……!)しかし、明日香と朱莉の2人の世界で朱莉に優しかったことは一度も無かった。「そうですか。私は鳴海明日香と申します。彼女……朱莉さんは私の兄嫁なんですよ?」明日香はにっこり微笑みながら京極に言った。兄嫁……今迄一度も明日香は朱莉をそんな風に呼んだこと等無かったのに、京極の前で明日香は初めてその言葉を口にしたのだった。「!」京極の息を飲む気配が朱莉にも感じられた。別に内緒にしていたわけでは無いが、今の自分の置かれた環境を京極に伝えるのは惨めだった。それ程親しい関係でも無かったので、敢えて言う必要などは無いだろうと
――17時「はぁ……」お見舞い用の花束を抱えてため息をついていた。母に翔との関係を問い詰められるのが怖くて、青ざめていた昨日の母の姿を見るのが辛くて……ついこんな時間までぐずぐずしてしまっていたのだった。入院病棟の前で何度かため息をついて、中へ入ろうと深呼吸した時――「朱莉さん!」振り向くと、若干呼吸を乱した琢磨が立っていた。驚きのあまり、朱莉の目が丸くなる。「ど、どうしたんですか? 九条さん」すると琢磨はツカツカと朱莉の傍へ寄ると、驚く位の至近距離で立ち止まった。「あ、あの……く、九条さん……。ち、近いです……」壁際近くまで追い詰められ、身体が触れ合う程に近付かれた朱莉は花束を抱え、俯いた。その瞬間、琢磨は自分の行動に初めて気づいて慌てて距離を取った。「ご、ごめん……翔から朱莉さんのお母さんが昨夜救急車で運ばれたって話を聞かされて……つい……」謝りながら、琢磨は自分自身で驚いていた。距離感が分からなくなるくらいに我を失うなんて今までの人生で経験したことが無かったからだ。「い、いえ。いいんです。それだけ気にかけていただいたってことですよね? ありがとうございます。翔さんの秘書と言うだけで私にまでご親切にしていただいて感謝しています」「朱莉さん……」「あ、今母の面会に行くところなんです。だから……」どうぞお帰り下さい、朱莉はそう伝えるつもりだったのだが……。「俺も面会……させて貰えるかな?」琢磨は朱莉に紙バックを差し出した。「え……? これは何ですか?」朱莉は差し出された紙バックと琢磨の顔を交互に見て、首を傾げた。「朱莉さんのお母さんは入院されているから食べ物は駄目だろうと思って、江の島の雑貨店でマグカップを買ってみたんだ。気に入ってもらえるかは分からないけど……」少し照れた様子の琢磨を朱莉はじっと見つめる。「九条さんて……何だか意外ですね」「意外?」首を傾げる琢磨。「はい。何だか意外です。翔さんの副社長の秘書という立派な仕事をされている方だったので常に冷静沈着な方だと思っていたんです。日常生活でも……」「……」琢磨は黙って朱莉の話を聞いていた。「でも、親しみやすさもあって……そういうところ、いいなって思います。マグカップ、どうもありがとうございます。母に手渡しておきますね」「朱莉さん。俺は面会させて貰
悲し気な顔で明日香と翔の後姿を見送る朱莉。その様子を京極は黙って見つめていたが……やがて口を開いた。「朱莉さん。僕はまた余計なことを話してしまったのでしょうか…?」京極の顔は悲し気で、その声は辛そうに朱莉は思えた。「いえ。そんなことはありません。母に嘘をつくのは正直辛かったので、かえって本当のことをあの方達に知って貰えて良かったかもしれません。京極さん、マロンをいつも可愛がっていただき、ありがとうございます。それじゃ、私用事がありますので失礼します」朱莉が立ち去ろうとした時。「朱莉さんっ!」振り向くと、何処か切羽詰まった表情の京極が見つめている。「もし、出掛けるのであれば……ご一緒出来ませんか? それともどなたかと待ち合わせですか?」何故京極がそんな切迫した目で自分を見つめてくるのか、朱莉には少しも理解出来なかった。だが……これ以上京極と関わっては明日香と翔、そして自分の関係が京極にバレてしまう可能性がある。だから朱莉は嘘をついた。「はい、すみません。人と待ち合わせがあるんです。本当に……すみません」「それはこの間貴女と一緒にいた男性ですか? 貴女の夫の秘書だと言う男性ですか?」「え? まさか……九条さことことを言っているのですか?」「九条……そうですか。あの男性は九条と言う方なんですね……」京極は目を伏せながらポツリと呟く。その様子を見て朱莉は不思議に思った。(どうしてだろう? 京極さんは九条さんの話になると何だか様子がおかしくなるような気がする)「あ、あの……京極さん。私と九条さんは別に……」「しつこく質問をしてしまってすみません朱莉さん。出かける処をお引き留めしてしまいましたね。それじゃ失礼します」京極は会釈し、マロンとショコラの元へと向かって歩いていく。「京極さん……」朱莉はそんな彼の後姿を複雑な思いで見つめるのだった――**** 琢磨は今、車で1人江の島へと来ていた。別に何をするでもなく1人で海を眺めていると、数人の女性たちから声をかけられた。琢磨はそれら一切全てをうるさそうに追い払うとため息をついた。以前までは江の島は好きな場所だった。江の島の町の雰囲気……潮風は普段大都会に住んでいる琢磨にとっては気分転換になる場所だったのだが、今は……。「全く……俺は1人でこんなところまで来て、一体何をやっている
「あら、朱莉さんじゃないの?」朱莉は突然背後から声をかけられた。恐る恐る振り返り、翔と明日香が仲睦まじげに腕を組んでいる姿が目に飛び込んできた。(翔先輩……!)その瞬間目頭が熱くなり、涙が出そうになった。しかし、それを必死で我慢すると挨拶した。「こ、こんにちは。明日香さん、翔さん」翔は朱莉が1人でいるのを見て顔色を変えた。「朱莉さん……一体どうしたんだ? 昨夜はあの後、メッセージを送っても返信が無いし、部屋を訪ねても留守だったみたいだけど?」どうしよう……。本当の事を言うべきだろうか? 朱莉はチラリと明日香を見た。(駄目……明日香さんがいるから本当のことを言えない……それなら……)「あ、あの。やはり母が疲れたから病院に戻ると言ったので……タクシーに乗って病院へ連れて帰って戻ったんです」俯きながら朱莉は答えた。「何だ……そうだったのか。何かあったのでは無いかと心配したんだよ」翔は安心した表情を浮かべる。「あら、そうだったの? 人騒がせな話ね」「……ご心配おかけしました……」眉を顰める明日香に朱莉は謝罪した。「どうして本当の事を言わないんだい? 朱莉さん」その時。突然近くから男性の声が聞こえ、朱莉たちは一斉に声が聞こえた方向を振り返った。するとドッグランの柵に頬杖をついて、朱莉たちを見下ろしている人物の姿があった。「きょ……京極さん……」朱莉はごくりと息を飲んで京極を見上げた。一体いつから京極は自分たちの会話を聞いていたのだろうか? 一気に緊張が高まり、朱莉は両手をギュッと握りしめた。「あら? 貴方は確か……」明日香が首を傾げる。「ええ。僕が朱莉さんの犬を引き取った者です」一方、何のことかさっぱり分からないのは翔の方であった。しかし、朱莉の犬を引き取って貰ったとなるとお礼を言わなければならない。「朱莉さんの犬を引き取ってくれたと言う方は、ひょっとすると貴方だったのですか? どうも有難うございました」翔は頭を下げると京極は眼を細める。「貴方はどちら様ですか?」尋ねたその瞳はどこか棘がある。「え……?」2人の様子を見た朱莉は焦った。(いけない! 今翔先輩は明日香さんと腕を組んでいる……。もし翔先輩が正直に話してしまったら……!)「あ、あの……この方はこちらにいらっしゃる明日香さんと言う方の……お兄様に当たる
—―日曜日 琢磨は朱莉と翔があの後どうなったのか気になって仕方が無かったので、とうとう我慢できずに翔にメッセージを書いた。『翔、昨夜は朱莉さんと朱莉さんのお母さんときちんと会って話が出来たんだろうな?』そして送信する前に再度メッセージを読みなおし……何だか馬鹿らしくなってきた。「何だって言うんだ……? 別に俺にはあの2人のことなんか全く関係が無い訳だし……」スマホをソファに放り投げると、琢磨はポツリと呟いた。「久しぶりに江の島にでも行ってみるか……」今日は何故か家でじっとしている気になれなかった。琢磨は立ち上がると出掛ける準備を始めた——****「明日香、今朝の体調はどうだ?」琢磨はまだベッドの中にいる明日香に声をかけた。「うん……。大分良くなったかしら……」ベッドの中でまどろみながら明日香は返事をする。「そうか、これから朝食の準備をしようと思うんだが……食べれそうか?」翔は明日香の額に手を当てながら尋ねた。「うん、大丈夫よ。ねえ、何を作ってくれるの?」「ツナのピザトーストにオムレツ、野菜スープを作る予定だ」「わあ、美味しそう。それじゃ起きなくちゃね」明日香はウキウキとベッドから起き上がると、翔の首に腕を回してキスをする。「愛してるわ、翔」「ああ、俺もだよ……明日香」翔は明日香をしっかり抱きしめると耳元で囁いた――****「はい、どうぞ。ネイビー」朱莉はネイビーに餌と水をやると、ネイビーは口をモグモグ言わせ餌を食べ始めた。その姿はとても愛らしく、朱莉の心を癒してくれる。「ふふふ……本当に可愛い……」フワフワのネイビーの背中を撫でながら朱莉は笑みを浮かべた。それと同時に脳裏によぎるのは京極に預けたマロンの姿と、青ざめた顔でベッドに横たわる母の姿。 15時になったら朱莉は母の面会に行こうと思っていたが、正直会うのは怖かった。昨夜、あの母の取り乱した様子を見れば、絶対に何か気付かれてしまったのは間違いない。それを今日、面会に行って追及されたら? 母に嘘をつき通せる? それともいっそ母には誰にも言わないでと口止めをして契約婚の事を話してしまおうか……?「駄目……そんなの出来っこない。私がお金の為に契約婚をしたことを知ればお母さんは私を軽蔑するかもしれない。傷付くに決まっている。最低でも後5年……お母さんには何もバ
「え……? そ、それはどういうことですか……?」「お母様の方から、どうしても外泊許可を出して貰いたいとせがまれたのですよ。なのでこちらも断念して外泊許可を出したのですが、やはりまだ無理だったんですよ。面会されて行きますよね? 簡易ベッドがあるので、泊まり込みも出来ますが、どうされますか? でも無理にとは言いません。こちらで患者さんの様子はしっかり見ますし、今はもう安定していますから」「は、はい……」朱莉は一瞬躊躇したが……部屋にはネイビーが残されている。なので朱莉は病院に泊まり込むのは無理だった。「あの……どうしても家を留守に出来ないので面会だけして帰ります」朱莉は俯きながら答えた。「そうですか。分かりました。では……我々はこれで失礼しますね」主治医は頭を下げると、看護師を連れて朱莉の前から去って行った。それを見届けると朱莉はそっと病室のドアを開けて中へと入って行く。「お母さん……」ベッドに横たわった朱莉の母は顔色が真っ青だった。点滴に繋がれ、酸素吸入を付けられた母を見ていると胸が潰れそうに苦しくなった。朱莉は眠っている母に近付くと、ギュッと母の手を握り締めた。「ごめんなさい……。お母さん……。私が心配かけさせちゃったから、無理に外泊許可を貰ったんだよね……? あんなことがあったから具合が悪くなっちゃったんだよね……?」朱莉は涙を流しながら母の手を握りしめながら思った。自分は何て親不孝な娘なのだろうと。(ごめんなさい……ごめんなさい……)朱莉は心の中でいつまでも母に謝罪を繰り返し続けた——**** 病院の帰りのタクシーの中、朱莉は翔との連絡用スマホを手に取った。そこには朱莉宛にメッセージが残されていた。『朱莉さん、今夜は本当に悪かった。夜、明日香の元へ来てくれるはずの家政婦さんが体調を崩して来れなくなてしまって、不安に思った明日香が過呼吸の発作を起こしてしまったんだ。なので明日香の側をれる訳にはいかなくなってしまった。1人にする事は出来ない。申し訳ないがお母さんによろしく伝えてくれないか? それにやはり親子水入らずで過ごしたほうが良いだろう? また明日連絡を入れるよ。それじゃ、おやすみ』朱莉は呆然とそのメッセージを見つめていた。翔が明日香を一番優勢に見ているのは分かっていた。分かってはいたが、ここまではっきり現実を突きつけられて
「明日香、大丈夫か!?」翔は玄関で靴を脱ぎ捨てるように部屋の中へ駆け込むと、リビングのソファに倒れ込んでいる明日香の姿を発見した。(明日香っ!!)「明日香! 明日香! しっかりしろ!」慌てて助け起こすと、明日香はぼんやりと目を開けた。「あ……」明日香は激しい呼吸を繰り返し、息を吸い込もうとしている。(過呼吸の発作だ!)咄嗟に気付くと、明日香に声をかけ続けた。「明日香……落ち着け……ゆっくり息を吐いて呼吸するんだ……そう、その調子だ……」明日香を抱き締めながら、暗示をかけるように明日香の耳元で繰り返し言う。やがて、明日香の呼吸が安定してくると、翔は身体を離した。「明日香……今水を持って来るから待ってろよ?」ウオーターサーバーから水を汲んでくると、翔は明日香を支えて水を飲ませた。明日香はゴクゴクと水を飲み干すと、ようやく息を吐いて翔を見つめる。「明日香……一体どうしたんだ? 家政婦さんはまだなのか?」翔は明日香の隣に座ると尋ねた。「突然今日やって来てくれる家政婦が発熱したらしくて今夜は来れなくなってしまったそうなの……」「そうなのか……?」「だから……今夜は1人になってしまうかと思うと怖くなって、それで発作が……」明日香は翔にしがみ付くと叫んだ。「ねえ! 翔……何処にも行かないでよ! お願い……私の側にいて……独りぼっちにさせないでよ! 1人は嫌……怖くてたまらないの……!」そして肩を震わせながら翔の胸に顔を埋めた。(明日香……)「分かったよ、明日香。安心しろ……。ずっとお前の側にいるから……」翔は明日香の髪を優しく撫でた。「本当に……? 本当に側にいてくれるのね?」明日香は眼に涙を浮かべながら翔を見つめる。「ああ、勿論側にいるよ。朱莉さんにはお母さんもいることだし、大丈夫だろう。それにやっぱり親子水入らずにさせてあげるべきかもしれないしな。今朱莉さんに電話を入れるよ」翔はスマホをタップしたが、一向に朱莉は電話に出なかった。「おかしいな……? 何で出ないんだろう?」翔は首を傾げた。「何?朱莉さん…電話に出ないの?」明日香は翔を見ると尋ねた。「ああ……そうなんだ。こうなったら直接朱莉さんの所へ行って来るか。明日香、悪いけど少しだけ留守番をしていて貰えるか? すぐに帰って来るから」「ええ……分かったわ。で
(え……? 鳴海……翔……? この顔、以前何処かで見た気がする。でも……一体何処で……?)その時、朱莉が声をかけてきた。「あの、それじゃ食事の準備が出来たので皆で食べましょう?」「ああ、そうだね。へえ~すごく美味しそうだ」琢磨は笑顔で食卓に着くと、朱莉は顔を赤らめて翔の隣に座った。そんな様子を見て洋子は思った。(朱莉はこの男性のことが好きなのね。でも何故かしら? 私としては病院迄来てくれた男性の方が好ましいと思うけど……)食卓にはシチューとマッシュルームとベーコンのバターライス、サーモンとアボガドのサラダが用意されていた。朱莉は生れて初めて、翔を交えた母と3人の食卓を囲んだ。朱莉の胸は幸せで一杯だった。ずっと片思いをしていた翔と、そして大好きな母と3人で今、こうして食事をしているのが、まるで夢のようだった。翔は始終優しい笑顔で朱莉と、朱莉の母に自分の趣味や仕事のことを話して聞かせてくれた。やがて食事も終わり、洋子は奥のリビングで休んでいた。そして朱莉が片づけを始め、翔が手伝おうとしていたその時……。突然翔のスマホが鳴り響いた。それを手にした翔の顔色が変わったのを朱莉は見逃さなかった。「翔さん……その電話、明日香さんからじゃないですか?」朱莉は翔に尋ねた。「あ、ああ……。そうなんだ……」翔は困ったように朱莉を見た。「どうぞ、電話に出てあげてください。明日香さん、何か困ったことが起きてるかもしれませんし」「あ、ああ……すまない。朱莉さん」言うと翔はスマホを手に取った。「もしもし……。明日香? どうした? おい、明日香! 返事をしろっ! ……くそっ!」その声にリビングで休んでいた洋子も何事かとやって来た。翔は電話を切ると朱莉に向き直った。「すまない。朱莉さん。……明日香の返事が返ってこないんだ。何かあったのかもしれない……。本当に申し訳ないが……」「ええ、私なら大丈夫です。どうぞ明日香さんの元へ行ってあげて下さい」朱莉の言葉に洋子は驚いた。「え!? 明日香さんて……一体誰のことなの!?」すると翔は頭を下げた。「お母さん……本当に申し訳ございません。明日香が苦しんでいるのです。すみませんが、彼女の元へ行かせて下さい!」そして頭を下げると、朱莉の方を振り向いた。「朱莉さんも……本当に……ごめん!」翔は上着を掴むと足早
「ほら、お母さん。この子がペットのネイビーよ?」朱莉は笑顔でネイビーを抱きかかえると洋子に触らせた。「まあ! 何て可愛いのかしら……フフフ」洋洋子は笑顔でネイビーを撫でながら、朱莉の顔をチラリと見た。(朱莉……貴女はいつもこんなに広い部屋で一人ぼっちで暮していたの? もしかして貴女の結婚て何か意味があるの? どうして何も説明してくれないのかしら……?)「どうしたの? お母さん。さっきから私の顔をじっと見て……」「あ、いいえ。何でもないの。ただ病院以外で朱莉の顔を見るのは久しぶりだと思って」「そんなことだったの? 嫌だなあ。お母さんたら。今日外泊出来たってことは大分身体が良くなったってことでしょう? きっとこれからも外泊出来る日が増えてくるに決まってるんだから。ね?」「え、ええ。そうね」洋子は曖昧に笑ったが、実際は体調が良くなったというわけでは無かったのだ。朱莉のことがどうしても心配で、無理を言って1泊だけ外泊許可を病院から貰ってきたのであった。「それじゃお母さんはリビングで休んでて。すぐに夕食の準備をするから」「ええ、分かったわ。それじゃお言葉に甘えて休ませてもらうわね」朱莉が台所で料理をする音を聞きながら洋子はリビングへ向かった。リビングルームもとても広く、置かれた家具はどれも上質の物ばかりだったが、その全てが洋子の目には作り物の……まるでモデルルームのようにしか見えなかった。この部屋には、若い新婚夫婦の甘さ等一切無い、冷たく冷え切った部屋にしか感じられなかったのだ。(朱莉……貴女……本当に大丈夫なの……?)洋子は食事が出来るまでリビングで休みながら、娘の身を案じて心を痛めていた。鳴海翔……。洋子はその名前を何処かで聞いた覚えがあった。でも……それはいつのことだったのだろう? だが、大切な一人娘をこのような孤独な境遇に置くなんて。きっと冷たい人物に違いない。そしてそれとは逆に秘書を務めているという琢磨のことを考えていた。(ああいう男性だったなら安心して朱莉を任せることが出来るのに……世の中はうまくいかないものなのね……)やがて、洋子がウトウトしかけていた時、朱莉の声が聞こえてきた。「お母さん……大丈夫? 今シチューが出来たんだけど」「ああ……ごめんなさいね。うっかり眠ってしまったみたいで」「ううん、いいのよ。それでど
やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」「う、うん。そうなの」朱莉は少しだけ目を伏せる。(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)「朱莉? どうかしたの?」母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。「九条です。九条琢磨と申します」「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。「九条さん」朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。「九条さん。本当に今日はありがとうございました」「! い、いえ……」琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」「うん。そうだね」(今度九条さんに何かお礼をしないと……)朱莉は母に声をかけた。「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」**** エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」朱莉は自分の部屋に